子供たちに命の尊さを教え導くのは親と教育者など、周りの大人達です。
本来そうであるはずの教育現場、それもそのトップから驚くべき文章がニュースになってます。
事の発端は、2020年8月21日に、新潟県燕市で開催された定例教育委員会の場で、遠藤浩教育長が報告した文章の「教育長報告」の内容です。
多くのメディアでは、問題となった部分の文章のみしか取り上げてませんでしたので、ネットから調べて全文を読んでみました。(文末に参照URL掲載)
報告内容は、今年のコロナによる子供たちへの悪影響について書かれています。
そして「8月は平和を強制的に考えさせられる。」と続き、原爆の日や終戦の日を引き合いに、自身が担任をしていた頃の戦争に関する教育を語り、「教育は死に方を教える のではなく、あくまでも生きる術を教えるべきなのである。」と綴ってます。
ここまで読めば、戦争を賛美しているとは思えません。
むしろ「戦争によって愛する者のために死ぬ」事が、教育によって作り出された間違いだった可能性を指摘してます。
しかし問題は、その後に続く不適切と指摘された部分です。
<不適切部分の引用:「令和2年8月 定例教育委員会々議録」より>
『今のコロナ禍を短時間で解消する方法は、どこかで大きな戦争が発生することではないだろうか。
中国とアメリカが自国以外の地域で戦争を始めれば、お金は動く。
コロナ騒動などそっちのけで、ミサイルの発射の瞬間が繰り返し放送されるだろう。
きっと経済が上向くきっかけになるのではないか。
クリミアでもいい。
紛争とか戦争が始まれば武器という商品で経済は回復するだろう。
罪のない人間の命との交換である。
他に何かいい策があるのだろうか。
愚かな人間であり続ける限り、注目の矛先を変えることでしか事態を乗り越えられないのかもしれない。』
このように報告は締められてます。
私はなぜこの報道に興味を持ったかと言えば、不適切な文章が一部しか報道されていなかったため、いつものメディアによる切り取りの印象操作かと思ったからです。
しかし、実際に文章を読んで見れば、これはヒドイと頷けます。
この後に出された釈明文の中には、決して戦争を賛美しているのでなく、現在の閉塞感打開が戦争に繋がるのではないかという人間の愚かさについて説いたもので、戦争を肯定するものではないと、教育長の真意が伝わらなかった事を反省するという内容のものでした。(こちらも文末に参照URL掲載)
「罪のない人間 の命との交換である。他に何かいい策があるのだろうか。」とは、たとえどんな前置きや注釈があったとしても、教育長の報告としては不適切だと誰にでも分かる事だろう。
確かに戦争特需は、一部で経済を潤わせるかもしれない。
しかし、不適切文章の手前で「教育で生きる術を教えるべき」と説きながら、「罪のない人間 の命との交換」と知りつつ表現することは、教育長の言う「生きる術」とは何かを考えさせられる。
真意が伝わらなかったと言い訳するのは簡単です。
しかし、それが子供たちへの教育において「真意が伝わらなかった」という理由で、間違った教育がされれば、被害にあうのは子供たちです。
遠藤教育長は責任を取り、辞任する事を発表しました。
当然だと思います。
しかし、忘れてはいけないのは、このような不適切を遥かに超えた、発言をしている方々で責任を取らない人たちもいます。
それは国会議員など、国家の要職につく人たちです。
私達はそれを決して忘れてはいけないと思います。
<参照:令和2年8月 定例教育委員会々議録>
http://www.city.tsubame.niigata.jp/content/100898890.pdf
<参照:8月定例教育委員会「教育長報告」における不適切な表現について(お詫び)>
http://www.city.tsubame.niigata.jp/content/100899057.pdf
<参照:定例教育委員会|燕市>
http://www.city.tsubame.niigata.jp/school/031001011.html